このページでは、HIV・エイズの歴史についてお話します。

エイズの歴史を語る上でのキーワードとして、3つ上げたいと思います。「エイズパニック」「薬害エイズ事件」「HARRT」、この3つです。1980年代にエイズが我が国にも入ってきて、今日に至るまでの間にどんな経過をたどってきたのか。3つのキーワードを軸にしてお話したいと思います。

なお、「薬害エイズ事件」については、ここでは書ききれない内容が沢山あるので、近日中に別ページにて詳細にお伝えすることにします。

・・1.初めてニュースでエイズ患者を見た

私が始めてエイズと言う名前をニュースで知ったのは、今から25年以上も前だったと思います。アメリカの男性同性愛者や麻薬患者の間でエイズと呼ばれる不治の病気が急速に広まっている、と言うニュースを見たのが最初だったと記憶しています。

テレビの画面にはエイズ患者の姿が映し出されていました。全身に広がる肉腫や肺炎になってゲッソリとやせ細ったその姿を見て、とても怖い病気だと思いました。あれはたぶん、カポジ肉腫とニューモシスチス肺炎(当時はカリニ肺炎)の症状だったと思います。

当時の私はエイズに関する知識も情報も乏しく、いきなりエイズ発症末期の患者を映像で見せられたのです。私をはじめ、多くの人がエイズを怖いと感じてしまうのは無理もなかったと思います。

しかし私自身も周囲の人もみんな、当時はまだ海の向こう、アメリカの話であり、またエイズ患者が同性愛者に多いことから、自分たちにはまるで関係のない病気だと思っていました。

しかし、そのニュースをテレビで見た1年か2年くらい後に、日本でもエイズ患者が見つかります。もう、海の向こうのお話ではありませんでした。

日本国内における、最初のエイズ患者は、1985年、厚生省エイズ調査検討委員会(後のエイズサーベイランス委員会)が認定し、発表しました。

ここでエイズ・サーベイランス委員会について説明しておきます。1984年、厚生省はエイズ患者の発生動向について、調査・分析を行うため、「エイズ調査検討委員会」を発足させます。

この委員会が翌1986年、エイズ・サーベイランス委員会と名前を変えます。より専門的な見地から、エイズの研究結果や、感染の動向を正しく国民へ情報提供することを役目としています。

ちなみに、サーベイランスとは、「見張り。監視。監視制度。」と言う意味です。ただ、この言葉は日本ではなじみがなく分かりにくいことから1997年、エイズ動向委員会と改称されています。

こうして、エイズは段々と身近な病気として認識されるようになります。でも、初期の情報では同性愛者や麻薬中毒患者の間に広まっていると報道されたことから、エイズ患者に対する差別、偏見がありました。

・・2.薬害エイズ事件

エイズ調査検討委員会が1985年に認定した、最初の日本人エイズ患者は、アメリカ在住の男性の同性愛者でした。そして同じく1985年、国内の血友病患者3名をエイズ患者と認定します。しかし、本当はこの患者より前にエイズ患者は見つかっていたのです。

実は血友病患者の中に、血液製剤によるHIV感染者やエイズ患者がすでにいたのです。その患者については、1983年に厚生省エイズ研究班会議に帝京大から症例が報告されています。しかし、その会議の中ではエイズ患者と断定出来ず、認定されなかったのです。

すでに血友病患者の間にHIVは感染して広まっていたのですが、当時の医療関係者はそれを防ぐことは出来ませんでした。

また、血液製剤によるHIV感染を防ぐために開発された加熱製剤が出来た後も、日本では2年以上に渡ってHIV感染の恐れがある非加熱製剤が使われ続けました。

これらの事実をめぐっては、「薬害エイズ事件」として1996年に関係者が起訴され、裁判で争われました。非加熱製剤を使用すればHIV感染の危険性があることを知りながら、加熱製剤が開発された後も使用し続けた責任が問われたのです。

起訴されたのは、帝京大学医学部附属病院の医師だった安部英、厚生省官僚だった松村明仁、ミドリ十字の代表取締役だった松下廉蔵・須山忠和・川野武彦が業務上過失致死容疑で逮捕・起訴されました。この事件は連日テレビのニュース、ワイドショーで取り上げられたので、ご記憶の方も多いと思います。

ミドリ十字の3被告人については、2000年に実刑判決が出ました。安部英被告については、2001年に一審無罪となり、検察が控訴します。しかし、その後安部被告は認知症を発症し、公判停止となります。そして2005年、88歳で死亡します。

村松被告については一審有罪(一部に無罪判決)、二審有罪(一部無罪確定)、2008年最高裁で弁護側の上告を棄却しました。

この薬害エイズ事件では、自分たちの責任を何も認めようとしない厚生官僚たちの無責任ぶりが激しく非難されました。そんな中、当時の厚生大臣だった管直人は官僚たちと戦い、初めて行政側の責任を認めました。

その官僚と戦う姿は、薬害エイズの被害者はむろん、広く国民からも支持され、その後の政治家管直人の大きな資産となりました。

しかし、薬害エイズ事件の最大の被害者である血友病患者にとっては深刻な問題でした。アメリカから輸入した製剤を使った患者にHIV感染は広がりました。実に患者の40%がHIVに感染したと言われています。1985年以降、加熱製剤が使用されるようになり、血友病患者から新しいHIV感染者が出ることはなくなりました。

関連記事⇒「薬害エイズ事件」

・・3.エイズパニック

こうして、最初はアメリカの一部の同性愛者だけに感染すると思われていたエイズ患者は、日本国内にもいることが分かりました。

そして、エイズパニックと呼ばれる一連の大騒動が起きます。1986年11月、長野県松本市にフィリピンから出稼ぎに来ていた女性がフィリピン帰国後にHIVに感染していたことが判明します。

そして、その女性が長野で売春行為を行っていたと報道されました。女性の実名も公表され、女性が働いていたとされる店や、そこに行った客までも探そうとマスコミが殺到したのです。

つまり、そのフィリピン女性から感染した日本人がいるのではないかと関心をあおり立てたのです。続いて翌87年、今度は神戸で事件が起きます。

この年、厚生省は神戸で日本人女性初の感染者が確認されたことを発表します。そして、その女性は男性同性愛者の疑いのある外国人船員からHIVを感染したと報道されました。

女性の死後、名前や顔写真が公開され、更にはその女性が多くの日本人相手に売春行為を繰り返していたと報道されます。そして、松本の場合と同様、マスコミは神戸へ押しかけ、女性の客だったと思われる男性探しが始まったのです。不安になった男性たちがHIV検査を受けに殺到したそうです。

しかし、後に女性患者の遺族が名誉棄損で裁判を起こし、この女性が売春行為を行ったと言う事実は否定されました。まさにパニックの中、個人のプライバシーや人権は軽く扱われていたのです。

当時の報道は、HIV感染やエイズ患者の恐ろしさだけを強調する偏ったもので、感染者や患者のプライバシー保護の観点が欠如していました。マスコミの主張は「2次感染を防ぐため」と言うものでしたが、今から考えるとそれは全くの口実であり、HIV感染防止には役立ちませんでした。HIV感染者に対する偏見と差別だけを残したのです。

こうして、日本国内でもHIV感染者やエイズ患者の実態が段々と明らかにされていきました。その結果、HIV感染は一部の同性愛者や、麻薬の回し打ちを行う人たちだけでなく、誰でも感染する可能性があると分かってきたのです。

・・4.国内法の整備

日本国内にもエイズ患者が現れたことを受けて、政府はエイズ対策の法整備を進めます。1988年、国会においてエイズ予防法が成立。翌年同法が施行されます。このエイズに関する法律は正式には、「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」と言います。

一部に、エイズ患者の治療よりも管理を優先させているとの批判もあり、1997年廃止となり、新しい感染症法へと引き継がれます。

新しい法律の正式名称は、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」と言います。同法は1999年に施行されます。

この法律は、「伝染病予防法」「性病予防法」及び「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律」を廃止・統合したものです。更に、2007年4月1日には「結核予防法」もこれに統合され、全ての感染症を網羅した法律となりました。患者の人権を尊重しながら、社会の安全も守ることを基本においています。

関連記事⇒「HIV(エイズ)と性感染症の法律」

・・5.エイズ治療の進歩

かつてHIV感染者に対する治療と言えば、エイズ発病までは観察診療が主でした。そしてエイズ発病後もこれといった有効打はなく、エイズ患者は発病から2年ほどで死に至ることが多かったのです。何よりエイズが恐れられたのは、こうして有効な治療もないまま死を迎えるしか手がないことでした。

しかし、1997年以降、HAARTと呼ばれる抗HIV治療が広く普及されるようになってから、エイズで死亡する患者数は激減しました。それは、HIV感染によって低下した免疫力をHAARTによって回復させることが出来るようになったからです。HIV感染者はエイズ発症前に治療を開始すれば、エイズの発症を防ぐことも可能になりました。

その成果は次のグラフを見て頂けばよく分かります。厚生労働省がweb上で公開している、1988年から2008年まで、20年間のエイズによって亡く なった人数です。緑色の線が入っている1997年頃から死亡者が減っています。

ただし、このデータは全数報告のデータではなく、任意の報告データです。従って、実際に亡くなった患者の数はこれよりももっと多くなります。しかし、このデータでも死亡の傾向を見ることは可能です。

エイズ患者病変死亡数

1988年(平成元年)から2008年(平成20年)までにエイズで亡くなった人の数(厚生労働省 エイズ動向委員会報告による

このように97年以降はエイズ治療に対して大きな成果を上げています。HIVを完全に除去する治療はまだ見つかっていませんが、エイズ発症を遅らせたり、仮にエイズを発症してもある程度の治療が可能になりました。

HAART以前は25歳で感染した患者の平均余命はわずかに7年でしたが、HAART開始以後は平均余命40年と言われています。

今後、更にエイズ治療の研究が進んで、ワクチンの開発や完治させる治療法が見つかることを願っています。

関連記事⇒「エイズ治療について」

・・6.現在のHIV感染者、エイズ患者数

最後に、現在の日本国内におけるHIV感染者、エイズ患者の人数をお話します。

2010年までの累計データでは、

HIV感染者  12,623人

エイズ患者   5,783人

となっています。
(厚生労働省エイズ動向委員会「エイズ発生動向報告」による)

HIV感染者は年々増え続けています。同じ報告書によると、2010年の1年だけで、新たにHIVに感染した人は1,050人、エイズを発症したした人は453人と報告されています。単純計算すると、ほぼ毎日4人以上が新たにHIVに感染していることになります。先進国の中では、日本だけが感染者数が増え続けているそうです。

以上、HIV・エイズの歴史を「エイズパニック」、「薬害エイズ事件」、「HARRT」、この3つのキーワードを軸にして駆け足で説明させて頂きました。

説明の中でも書きましたが、HIV感染は致死的疾患ではなくなりました。しかし、それでも発見が遅れれば治療は困難であり、生存率も下がります。恐ろしい病気であることには変わりありません。

そして、エイズの歴史の中で30年前と現在で最も異なる点の1つは、HIV感染が私たちの日常にある、と言うことです。

現在では何か特別な人が、特別な事情で感染するのではありません。私やあなた、ごく普通の人が普通に生活している中にHIV感染のリスクがあります。

それだけに、あなたがHIV感染に少しでも不安があったり、思い当たる過去があるなら、どうぞHIV検査を受けてください。早期のHIV検査は救命的検査であり、あなたの命を救うことになるかも知れません。

最後に、私が自分のHIV感染を疑ったときに使用した検査キットをご紹介します。あなたが保健所に行く時間がなかったり、誰にも知られたくない、誰にも会わずにHIV検査を受けたいと思うならこれがお勧めです。

*私がHIV感染の不安に悩んだとき使った検査キットです。10分で終わりました。

STD研究所 STDチェッカー TypeJ(男女共通)

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